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哲学対話

2019年06月01日

偏差値40の都立高校で、ここ数年「哲学対話」をやるようになったらハイレベルな大学に進学する生徒が相次いだという記事が、日経新聞に載っていました。「哲学対話」というのは、与えられたテーマについて “なぜ”、“どうして”、“例えば”、とグループでとりとめもなく延々と話し続けることのようです。他人の意見を否定してはいけないとか、お互いに質問し合うなど一定のルールはあるようですが、基本的には何を話しても自由であるとのこと。これをやると考える力がつくのだそうです。これをやっているうちに頭の中に「考える」という回路ができ上がり、その回路を経由して「理解する」という技が身につくということでしょうか。

 しかし世の中には反対に、ハイレベルな大学を出ているのに考えたり理解したりすることが苦手な人というのがたくさんいます。それでもこれらの人達は勉強は非常によくできたのでしょうから、私はこれまで、勉強ができることと思考力・理解力があることはまったく別なものだと思っていました。ところがどうもそうでもないらしいのです。思考力と理解力が上がれば勉強もできるようになるらしい。

ではなぜに、世の中には勉強の偏差値は高いのに思考力と理解力が乏しい人が多数存在するのでしょうか。一つには、勉強には思考も理解もしていなくても正解に辿り着く裏技のようなノウハウがあるのかもしれません。例えば、決められた時間内に一定量の問題をこなすための時間配分や、あるいはどのような問題が出るかを予測する方法、更に意味がわからなくても複数の選択肢から回答を選択するノウハウ、そういうものが確かに存在して、テストで高得点を取るには余計なことを考えているよりこうした技を磨く方が効率がよいのかもしれません。

 一方偏差値が低いというのは、もしかしたらこうした面白くもない地味な技を会得することには熱心になれないということなのかもしれません。だから勉強をしない。それが、「哲学対話」で思考と理解の面白さを覚えると勉強をするようになるから、技がなくてもそれ相応に成績は上がる。そんなところなのでしょうか。

社会に出ると、テストと違って対処するべき問題に正解がなくなる。それなのに、対処した結果が悪いと責任なるものを問われる。更には、他者というものがクローズアップされてくる。つまり自分だけがわかっているということには意味がなくなり、他者にわかってもらわなければいけないし、また他者をわからなければいけなくなる。これはよく言われる話です。

 そうなってくると、テストで高得点を取るための裏技の有効性は大きく薄れます。これらは事務能力の高さという意味では直結しますが、課題解決、あるいは集団におけるリーダーシップ、協働性という観点からはまったく役に立ちません。しかしもっと困る人、それは“なぜ”、“どうして”、“例えば”、を連発するだけで何も行動しない人です。事務をやってくれる人は確かに組織に貢献していると言えますが、四の五の言っているばかりで結局やるべきことから逃げる人というのは、本当に使いようがありません。

そう考えてみると、くだんの「哲学対話」というのは少々リスクもあるのではないかと思います。けれども、確かに当社の中でも、事務を正確に行うということだけに一生懸命になりすぎ、業務の意味や意義を考えることを軽視するために自分のやっていることを他者に説明できず、また他者の意図も理解できないのでかえって業務の方向性を誤ってしまうという事象はしばしば見かけます。そして事務の正確性にばかり頭が行ってしまうことの最大の弊害は、“仕事がつまらなくなってしまう”ことです。

 果たして本当に、「哲学対話」をやると仕事の意味や意義を考えるようになり、それを他者に伝え、また他者の話を聞いて考え方を合わせたりすることができるようになるのでしょうか?もしそうだとしたら、事務を正確にこなさなければという偏狭な義務感から解放され、“仕事の本質は他者との協働という楽しいものである”ことに気が付いて、その結果大いに生産性が上がるはずですが。ちょっとやってみようかな。

 

代表取締役 CEO  奥野 政樹

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