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リーダーによるマネージメントと神による支配の違い

2015年04月02日

神の名を語って破壊と殺戮を繰り返すテロ行為が、世界的な社会問題となってもう随分と月日が経ちました。世の中では、科学技術の発展で急速に利便性 が高まる一方で、貧富の差の拡大や環境破壊など矛盾や問題も日々深まっていきます。そうした矛盾や問題を嘆き、失望し、不安に駆られる人々は決して少なく ありません。そんな負の感情に巧みにつけ入り、洗脳によって神への絶対服従を旨とする組織体が作り上げられます。


実は、私達が日々自己を磨き、生活の糧を得、幸福を追求するための大切な舞台であるこの実業の世界、つまりビジネス・ワールドにも、こうした洗脳による神の支配を基軸とする組織は 少なからず存在するのではないか。毎日仕事をしていて出くわす様々な不思議の背景を考えるとき、どうしてもそういう疑念は禁じ得ないわけです。実業の世界では、そうした神に支配された組織が、暴力的に破壊や殺戮を繰り返すわけではありません。しかし、経済行動を目的とした実業界の通常の組織とは 違った趣を呈する組織に対して、私は強い違和感を抱かざるを得ないのです。
 
 実業界の通常組織は商行為、つまり自らの商品やサービスを顧客に購入してもら い、対価を得ることを目的としています。そのために宣伝をし、販売をし、顧客対応もするわけですが、目的が商行為である以上、そのための手段は、程度の差 こそあれどこも大体似たり寄ったりです。


ところが、一見商行為を行っている体は装っているものの、目的達成に向けて到底あり得ないやり方をしている組織があります。例えば販売行為をまったく行っていない、または顧客に対しての対応が強奪的、あるいは詐術的と言えるまでにぞんざいであるというケースです。
 
 そういう組織のトップの話を聞く機会が過去数回ありましたが、ある共通性が見受けられます。それは、そうしたトップはみな、ビジネスを語らないということで す。代わりに語られるのは、まるで小学校低学年向けのような道徳論です。実業界のリーダーというのは自己顕示欲の強い人も多いですから、話をさせると、いかに自分が業績を上げ、組織を運営していくのに優れ、また苦労もしているかということを、かなり誇張して語ることがあります。しかしそれが商行為に関わる 話である限り、私は特に違和感を覚えません。私が「おかしいな」と思うのは、トップが人と人との心のつながり、思いやりの大切さ、または世の中に役に立 つ、といった道徳論を意気軒昂に語り、商行為のことに話が及んでも、一生懸命、協力、あるいは先見性といった抽象論に終始し、具体的な方法論がまったく見えてこない場合です。


組織を運営するのに一番難しいことは何か?こう問われれば、答えは一つです。自分と考えが違 う人、いやそれよりもっと重大なのは、自分と感じ方が違う人の扱いです。よく話し合って、みんなの意見のよいところは取り入れて、最善の結論を導き出す、 そんなことを真顔で主張している人もよくいますが、私には、それは学級会のやり方にしか思えません。勿論、独りよがりにならないように、周囲の感覚に対し て感性を研ぎ澄ますことは必要でしょう。しかし最後は決断をしなければいけない。その決断が、組織のメンバーすべてにとって最善であるわけがないのです。 
 
 この組織運営上の難題に対して、組織を支配する神は洗脳によりメンバーの脳を作り変えるという手段を取ります。では、組織をマネイジするリーダーはどう対処 すべきなのでしょうか。それはリーダーの人間としての総合力、つまり人間力によって、「この人のためなら、まあ仕方がないか。とりあえず協力しよう。」と 気持ちよく諦めさせること。これがどれぐらいできるかにかかっていると、私は考えています。


だからリーダーたる者は、人間力を高めるべく日々自己研鑽しなければいけません。教養を高めるべく高い意識を持って働き、学び、生活し、遊び、失敗をして、それをさらけ出して面白く語れる余裕を持てるようにならなければいけないのです。
 
 そう考えるとき、私には少々気がかりなことがあります。それは、最近やたらと「ビジョン」ということが取り沙汰されるということです。様々なビジョンを見て みると、どうも神のお言葉と同種のことが書かれていることが非常に多い。もしかしたら、人間力を高めることの難しさに疲れたリーダーが、自らの神格化を図 ろうとする傾向の表れなのではないかと、心配になってしまうのです。

代表執行役CEO  奥野 政樹

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