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思考と感覚

2016年10月01日

ひところ「ゆとり教育」というのが最近の若者を無学で怠惰にする元凶のように取り沙汰され、遂に何年か前にそれは廃止されました。その結果、再び教科書は厚くなり、一度3に縮小されていた円周率は3.14に戻ったのでしょうか。私はもともと、個々人の能力差に殆ど頓着せず全員を平等に扱おうとする日本の公共教育システムが、学力の向上と言う意味ではあまり効率の良いものとは思っていないので、「ゆとり教育」をやめれば学力が向上するというロジックには説得力を感じません。ましてや教科書が薄くなると学生が怠惰になるというのは、笑止千万だとすら思います。

 しかし、子供達の授業参観などに行くと非常に気になることがあります。それは、近年「考えさせる教育」というのが横行しており、何かにつけ先生が「なぜですか?」と生徒に考えさせることです。「ゆとり教育」は終わってもこの「考えさせる教育」は一向に終わる気配がありません。例えば、先生:「2Kmを時速4Kmで歩くと何分かかりますか?」生徒:「30分」。すると先生:「なぜですか?」と来るわけです。なぜって、2÷4=0.5なのですから、0.5時間は30分に決まっています。しかし、そういう回答は期待されていません。なにやら2と4の線分図みたいなものを書いたりして回りくどく説明することが求められます。それでも、優等生は何が求められているかを察知しますから卒なく回答するのですが、多数の生徒がかなり的外れな回答をします。「この間、自転車で公園に行ったけど30分かかった。」そういった明後日の方を向いた回答が出ると、「あ、俺もこの間自転車買ったぜ」と別の誰かが無軌道な発言をしだし、あっと言う間に教室はざわついて、それを抑えるスキルがないと先生も金切り声をあげることとなり授業は崩壊します。

世の中、いつの頃からか考えることが大事ということが強調されるようになり、職場でもよく若手社員の教育などの際に「すぐに答えを教えるな。自分で考えさせろ。そうじゃないと、いつまでたっても自分でできるようにならない。」ということを主張する人が増えているように思います。しかし私は、これは間違っていると思います。確かに考える力がある人は考えた方が良い。その力がある人は、もともと考えろなどと言われなくても考えるから心配ないのです。考えない人というのは考えられないから考えないのであり、決して面倒くさいから考えないのではありません。

 では考える力、いわゆる思考力の源泉とは何なのでしょうか。私はそれは正しい感覚だと思っています。囲碁や将棋のプロは何手も先を読んで、つまり思考して次の一手の最善手を選ぶことができます。けれども実は彼らは殆どの場合、パッとある局面を見た瞬間に感覚で次の最善手がわかるのであり、思考で読むというのはそれを確認しているにすぎない。つまり、まずこの一目でわかるという感覚が無ければ思考などできないわけです。私の場合はその感覚がないから、三手先も読めません。

 こうした正しい感覚を養うには、繰り返し実戦しかないわけですが、この感覚を養う段階で自分勝手に考えてはいけません。正しいやり方で実践を積んで、その正しいやり方を身体に染み込ませなければいけないわけです。そうすることにより思考の基礎となる正しい感覚は身に付きます。感覚ができていないのに考えたところで、何も生まれないどころかとんでもない独りよがりに陥ってどうにも修正不能となってしまいます。「下手の考え休むに似たり」とはよく言ったものです。

冒頭の「考えさせる教育」の例であれば、考えさせる前にまずはたくさん計算問題を解かせて、その感覚を生徒に身に着けさせることこそが必要なのです。そして解けない生徒に対して必要なことは、なぜそうなるかを考えさせることではなく解けるようになるまで何度でも繰り返し、正しい解き方を教えることなのです。

 職場における教育でも同じで、私は社員等に何かを教えるときは、相手が相当のレベルに達するまで一切考えさせません。それは相手の考えは一切聞かないということでもあり、それを嫌がる人もいます。一方で、聞かれればすぐ回答を示します。それどころか、相手が間違えたことをしていないか眼を皿のようにして見ていて、少しでも間違えていればすぐに修正します。これを繰り返しているうちにだんだんと相手に正しい感覚というものが育ってくる。そうしたら教育はもうおしまい。そこから先は先生と生徒の関係ではなく、お互いの感覚とその感覚に基づいた思考をぶつけあうパートナーの関係になるのです。

代表取締役CEO  奥野 政樹

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