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歌詞と世相

2016年12月01日

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞しました。ポピュラー音楽における歌詞というものも、シェークスピアや夏目漱石の紡ぎ出す物語と同じで“文学”だったのかということを、改めて認識させられました。ボブ・ディランと言えば代表作は「風に吹かれて」。長引くベトナム戦争に米国の若者の間で急速に厭戦感が広まる中、ボブ・ディランの描く力の抜けた無常感は、政治目的の達成に躍起となり力を鼓舞しようとする国家の汗臭さに対する強烈なカウンター・カルチャーとして受け入れられました。いつの時代もどこの世も、若者が5~10歳年長者の作り出す世界に、自らが漠然と抱く世の中に対する理想、期待、失望、不安を重ね合わせ、強く惹き込まれることでヒットが生まれるという定番が存在するわけですが、そうすると、このヒットを創出する年長者というのは感覚が研ぎ澄まされているというよりはむしろ年の割には世間知らずで幼稚だということになるのではないか?そういった芸術というものが持つ曖昧さと矛盾に、はっきりとした解が見出せないでいるのは私だけでしょうか。

少し前に、スマートフォン等で音楽を聴く際に画面に歌詞が表示されるアプリを開発したベンチャー企業の社長にお会いしました。その社長が「旅先の韓国でふいに流れてきたサザン・オールスターズの曲を聞いて、歌詞が持つ“人の心を動かす力”を再認識しましてね」と創業の動機を語っていらっしゃいました。あえてどの曲かはお聞きしませんでしたが、あまりサザン推しの人間でない私にとってはかえって思い浮かぶ歌詞が限られるという利点もあり、“四六時中も好きと言って”(「真夏の果実」)だろうと勝手に確信しています。

桑田佳祐の歌詞というのは、日本語の普通使わない用法から来る意外性に大きな特徴があると私は思っています。普通は“四六時中”の後に“も”はつかないし、また、よく言うところの四六時中文句ばかり言っている人間は、傍にいられると少々面倒ではあっても危険は感じないものですが、これが四六時中好きと言っている人間となると、正直、実はかなり怖いわけです。こういう座りの悪い表現を、わざわざラブソングというロマンチックであるべきものにこっそり入れるという非常識が、杓子定規な世の中に対する遊び心と反発精神をマイルドに表現する。この間接表現こそが桑田佳祐の妙なのではないかと思います。

 この作品は1990年の作品ですが、この時期はバブルも終わりに近づき、戦後の高度成長から経済的成長だけを唯一至高の価値観とし、そのために一糸乱れぬ集団の規律、そして恋愛という私生活においてさえ常識というものに盲目的に追従することを求めてきた日本という国のあり方に、大きな疑問が広がってきた頃だったと思います。もちろんいつの時代も常識はずれは芸術としてウケます。しかし高度成長における常識はずれとは、“途に倒れてだれかの名を 呼び続けたことがありますか”(「わかれうた」中島みゆき)の歌詞に象徴されるように壮絶な結果を伴う非常に重みのあるものだったのに対し、90年代には、常識はずれにそれこそが逆に常識であるとも言えるような軽さが出てきたのです。

 その後時代は小室哲哉に席巻され、さらにビジュアル系と呼ばれるバンドブームへと移行していきます。彼の書く歌詞の特徴は、何といっても「おかしな英語」にあると思います。“Can you cerebrate? ” “We will love long long time.” “Body feels exit” “Body feels excite” …小室哲哉が書いた英語歌詞の例ですが、どれもネイティブ泣かせの意味不明な英語です。しか、三単現の”s”だけはしっかりついていることから察するに、これは小室氏が英語がわからないわけではなくわざとやっているのではないかと思います。英語を言語というよりはあるニュアンスを込めたデザインのように使う。これが小室表現の肝なわけですが、当時巷を席巻したグローバルスタンダードブームの浮ついた本質を、実によく突いているように思います。

 そして更に、宇多田ヒカルという天才少女が、“It’s automatic,”や”You‘re always gonna be my love”(「First Love」)という正しい英語をもって、この軽薄なグローバルスタンダードブームに冷や水を浴びせた後、新しい歌というのはあまり出なくなり、懐メロの時代となりました。世の中はデジタル化が進み、一見急激な進化が進んでいるようにも見えますが、人々のメンタリティーということで言えば、複雑で入り組んだ屈折に満ちたものというのはあまり好まれなくなりました。ある程度歳を取ると人は、物質的には新しい便利さには魅惑されてもメンタルに新しい境地に触れようという意欲は薄れ、昔から知っている場所に安住を求めようとする。それが懐メロブームの背景にあると私は思います。それでもまだ新境地に飢えているティーンエイジャー向けには、新しい世界観を示す作品が最近とみに出てきています。“私以外私じゃないの”(ゲスの極み乙女。)“君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ”(前前前世/RADWIMPS)。この反論の余地のない当たり前さ、あるいは思いの深さを時系列において極端化するというわかりやすいロジックには、やはりデジタルな割り切りと屈託の無さを感じます。一言で言えば、今の世の中は難しいことを考えなくていいくらい便利で、平和だということなのではないでしょうか。

そんな中で、今私が気に入っているのはこれです。

“天国と地獄を数えろ 退屈に殺される前に 揺るがない条件と確かな理由を挙げて ご回答めしませ”                                 (「天国と地獄」ユニオンスクエアガーデン)

 桑田佳祐の歌詞と違って文法的には誤りはありません。しかし意味はまったくわからない。それなのに、この平和ボケとも言えそうなほど成熟した世の中で、甘えることなく強く自分を貫いて闘っていこうという反骨心に満ちた気迫が存分に伝わってきます。こういう歌詞が生まれてくる限り、これからの世の中もきっと希望に満ちたものなのであろうと私は思います。

代表取締役CEO  奥野 政樹

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